三度目の食事|61歳、手をつなぐまでが遠い

三度目に彼女と会う日は、朝から服が決まらなかった。

最初に着たシャツを脱いだ。

二枚目を着た。

鏡を見る。

少し若作りに見える気がした。

脱いだ。

結局、最初のシャツに戻った。

何をしているんだろうと思う。

61歳である。

誰かに会うために服を三回も着替える歳ではないような気がする。

では何歳ならいいのかと聞かれると、それもよく分からない。

香水も迷った。

ほんの少しだけつけた。

そして、

「つけすぎたか?」

と思って洗面所へ戻った。

恋愛というのは、ずいぶん人を面倒にする。

待ち合わせには十五分前に着いた。

早すぎた。

近くを一周しようかと思ったが、それも不自然なので、そのまま待つことにした。

約束の時間より五分ほど前に、彼女が来た。

私に気づいて、小さく手を上げた。

その瞬間、

朝から服で悩んでいたことなど全部どうでもよくなった。

「お待たせしました」

「いや、私も今来たところです」

十五分前からいる。

こういうところだけは、若い頃からまったく成長していない。

目次

三度目になると、少しだけ空気が変わる

一度目の食事では、

お互いのことを探っていた。

何を話せばいいのか。

どこまで聞いていいのか。

何を言わないほうがいいのか。

二度目になると、少し楽になった。

そして三度目。

彼女の顔を見たとき、

初めて、

「知っている人に会った」

という感じがした。

まだ何も知らない。

好きな映画も知らない。

苦手な食べ物も全部は知らない。

怒るとどうなるのかも知らない。

それなのに、

他人ではなくなっている。

恋愛には、こういう不思議な途中がある。

友人と言うには少し違う。

恋人ではない。

でも、

ただの知り合いでもない。

名前のない関係。

私はこの時間が、案外嫌いではなかった。

まだ何も決まっていないからだ。

彼女が私のシャツを見た

料理が来る前だった。

彼女が言った。

「今日はちょっと雰囲気違いますね」

心臓に悪い。

「そうですか?」

なるべく普通に答えた。

「シャツかな」

朝から三回着替えたシャツである。

「これ、いつも着てますよ」

嘘ではない。

実際に持っている服なのだから。

彼女は少し笑った。

「似合ってます」

それだけだった。

私は、

「ありがとうございます」

と答えた。

そして水を飲んだ。

別に喉は渇いていなかった。

61歳になると、女性に「似合ってます」と言われても動揺しない男になっている予定だった。

予定だけは。

大人の恋は、過去を連れてくる

食事をしながら、彼女が昔の話をした。

詳しくは書かない。

人には、自分で話したことでも他人に書かれたくないことがある。

ただ、

誰かを好きになったこと。

うまくいかなかったこと。

大切にしていた人と離れたこと。

そんな話だった。

私は聞いていた。

若い頃なら、

その話に出てくる男性が気になったかもしれない。

どんな人だったのか。

どれくらい好きだったのか。

自分と比べてしまったかもしれない。

でも、その日は少し違った。

彼女にも、

私と会うまでの人生があった。

当たり前のことなのだが、

その当たり前が、妙に胸に残った。

61歳の恋愛には、

まっさらな人など出てこない。

みんな何かを持ってやって来る。

好きだった人。

傷ついたこと。

諦めたもの。

家族。

仕事。

身体の変化。

言わないこと。

言えないこと。

全部を持ったまま、

向かいの椅子に座っている。

若い恋が二人で未来を作っていくものだとしたら、

年齢を重ねてからの恋には、

相手がここまで生きてきた時間ごと受け入れる

という部分があるのかもしれない。

「どうして誘ってくれたんですか」

食事の途中で、彼女が突然聞いた。

「え?」

「どうして私をまた誘ってくれたんですか」

困った。

簡単な答えならある。

あなたに会いたかったから。

それだけだ。

でも、それをそのまま言うには少し勇気がいる。

私は、

「話していると楽しいからです」

と答えた。

間違ってはいない。

彼女は、

「それだけ?」

と言った。

こういう質問はずるい。

私は笑った。

彼女も笑った。

しばらくして、

私は言った。

「また会いたいと思ったからでしょうね」

彼女は、

「そうですか」

とだけ言った。

でも、そのあと少し黙った。

嫌そうではなかった。

少なくとも、そう見えた。

人間というのは都合がいい。

好きな人の沈黙は、

自分に都合のいい意味に解釈したくなる。

店を出ても、すぐに帰りたくなかった

食事が終わった。

まだ早い時間だった。

「少し歩きませんか」

私から言った。

彼女は、

「いいですよ」

と言った。

ただ歩いた。

特に目的地はない。

こういう時間を、

若い頃の私はもったいないと思ったかもしれない。

どこかへ行く。

何かをする。

恋愛にはイベントが必要だと思っていた。

でも、その日は違った。

横に彼女がいて、

同じ速さで歩いている。

それだけで十分だった。

彼女は歩くのが少し遅かった。

私は自然に速度を落とした。

そういうことを意識せずにやっている自分に気づいた。

好きになるというのは、

大げさなことより、

こういう小さなところに出るのかもしれない。

手と手の距離は、二十センチくらいだった

歩きながら、

何度か彼女の手が視界に入った。

正確には、見ていたのだと思う。

手をつなぎたい。

そう思った。

それだけなら簡単だ。

問題はその次である。

突然つないでいいのだろうか。

嫌だったらどうする。

驚かせないだろうか。

「手をつないでもいいですか」

と聞くのも、

何だか中学生のような気がする。

61歳になって、

手を一本どうするかで、

これほど考えるとは思わなかった。

若い頃なら、

もう少し勢いがあったのだろう。

今は、

自分が触れたいという気持ちと同じくらい、

相手が触れられたいと思っているか

が気になる。

これは臆病になったのか。

少し大人になったのか。

たぶん両方だ。

彼女の手との距離は、

二十センチくらいだった。

たった二十センチ。

なのに遠い。

海の向こう側くらい遠く感じた。

彼女のほうから少し近づいた

道が少し狭くなった。

向こうから人が来た。

彼女が私のほうへ少し寄った。

肩が触れた。

ほんの一瞬だった。

私は何も言わなかった。

彼女も何も言わなかった。

そのまま歩いた。

今度は腕が触れた。

偶然なのか。

そうではないのか。

分からない。

こういうときに限って、

恋愛経験など何の役にも立たない。

相手の気持ちを読む能力があるのなら、

世の中の恋愛はもっと簡単なはずだ。

私は、

やめようと思った。

今日は手をつながなくてもいい。

また会えればいい。

そう思ったら、

少し楽になった。

不思議なもので、

諦めると勇気が出ることがある。

「手、つないでもいいですか」

少し歩いたところで、私は言った。

「一つ聞いていいですか」

彼女がこちらを見た。

「何ですか」

私は一瞬迷った。

そして、

「手、つないでもいいですか」

と言った。

言ったあと、

やっぱり中学生みたいだと思った。

彼女は一瞬驚いた顔をした。

それから、

少し笑った。

「聞くんですね」

「一応」

「嫌って言ったら?」

「へこみます」

彼女は笑った。

そして、

自分の手を少しだけ私のほうへ出した。

私はその手を握った。

それだけだった。

音楽も流れない。

風が急に吹くわけでもない。

街の景色も変わらない。

誰もこちらを見ていない。

でも私は、

その数秒をたぶん長く覚えていると思う。

61歳の手は、若くない

彼女の手は温かかった。

私の手も、

若い頃の手ではない。

皮膚も変わった。

節も目立つ。

彼女の手だって同じだった。

でも、

不思議とそんなことは気にならなかった。

むしろ、

この手も長い時間を生きてきたのだと思った。

仕事をした。

誰かの手を握ったこともあるだろう。

誰かを抱いたこともある。

泣いた夜もあったかもしれない。

一人で頑張った日もあっただろう。

そんなことを考えると、

手を握るという行為が、

若い頃より少し重く感じられた。

性的な意味がないわけではない。

好きな女性なのだから、

もちろん身体にも惹かれている。

もう少し触れたいという気持ちもある。

でも、そのときは、

先へ進みたいとは思わなかった。

ただ手をつないで歩く。

それでよかった。

別れる前に、彼女が言った

そろそろ帰ろうということになった。

手を離した。

少し寒く感じた。

彼女が言った。

「今日は楽しかったです」

「私もです」

これは一度目の食事でも言った。

二度目にも言った。

同じ言葉なのに、

三度目は少し意味が違った。

彼女が、

「また誘ってください」

と言った。

私は、

「はい」

と答えた。

もう少し気の利いたことを言えばいいのにと思う。

でも、

「はい」

しか出なかった。

彼女と別れて、

私は一人になった。

少し歩いたところで、

自分の右手を見た。

当然だが、

何も変わっていない。

それでも、

さっきまで彼女の手がそこにあった。

そんなことを考えている61歳の男は、

我ながら少し気持ち悪い気もする(笑)。

でも、まあいい。

誰にも見せなければいい。

帰ってから届いたLINE

家に着いてしばらくして、

スマートフォンが鳴った。

彼女だった。

「今日はありがとうございました」

ここまでは前と同じだった。

その下に、

もう一行あった。

「手をつないだの、久しぶりでした」

私はしばらく画面を見た。

何と返すか迷った。

「私もです」

では少し味気ない。

「嬉しかったです」

では重いかもしれない。

結局、

「私も久しぶりでした。少し緊張しました」

と送った。

すぐに既読になった。

返信が来た。

「分かりました」

私は笑った。

何が分かったのだろう。

たぶん、

全部だ。

恋は少しずつ近づくくらいでいい

若い頃なら、

三度も会えば、

もっと先へ進んでいたかもしれない。

キスをしていたかもしれない。

もっと身体を近づけていたかもしれない。

61歳だから遅い、

ということではないと思う。

急ぎたければ急いでもいい。

年齢に関係なく、それは二人次第だ。

ただ私は、

この恋については、

少しゆっくりでいいと思った。

会う。

話す。

少し近づく。

手をつなぐ。

次に会いたいと思う。

恋愛というものを、

こんなに細かく味わったことは、

若い頃にはなかった気がする。

人生の残り時間が若い頃より短くなったのに、

恋だけは急がなくなった。

考えてみれば、

少しおかしな話だ。

でも、

だからいいのかもしれない。

次に彼女と会ったら、

もう一度手をつなぐのだろうか。

それとも、

もう少し近くなるのだろうか。

まだ分からない。

そして、

今はまだ、

分からないままでいい。

運営者のメッセージ

前回の物語では、

61歳の男性が、もう恋なんてしないと思っていたところから、

一人の女性のLINEを待つようになるまでを書きました。

今回はその続きです。

三度目の食事。

そして、

手をつなぐ。

若い頃なら、それほど大きな出来事ではなかったのかもしれません。

でも年齢を重ねてからの恋では、

相手にも人生があります。

自分にも人生があります。

だからこそ、

「触れたい」

だけではなく、

「触れてもいいのだろうか」

という気持ちが出てくる。

私はそれを、

臆病になっただけだとは思いません。

相手を一人の人間として大切にしたいからこそ、

少し慎重になる恋もあるのでしょう。

そして面白いのは、

61歳でも、

手をつないだだけで嬉しくなるということです。

恋愛というものは、

経験を積めば上手になるものだと思っていました。

どうも違うようです。

本当に好きな人の前では、

人は何度でも初心者になる。

次に二人が会ったとき、

どこまで近づくのか。

まだ決めていません。

物語の中の二人にも、

少し自由に歩いてもらおうと思います。

恋は、

作者まで先を知りすぎていないくらいが、

案外ちょうどいいのかもしれません。

最後の初恋|61歳、もう恋なんてしないと思っていた

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