61歳になって、恋をするとは思っていなかった。
正確に言えば、女性に興味がなくなったわけではない。
街を歩いていて、きれいな人だなと思うこともある。
一緒に食事をして楽しい女性もいる。
性欲だって、年齢と一緒にきれいさっぱり消えてくれるわけではない。
残念ながら、そこは案外しぶとい(笑)。
ただ、恋はもうしないと思っていた。
誰かからの連絡を待ったり。
会える日を楽しみにしたり。
何気ない一言を家に帰ってから思い出したり。
そんな少し面倒で、少し恥ずかしくて、それでもどうしようもなく心が動いてしまうようなことは、もう自分には起きないと思っていた。
若い頃には、何度か恋をした。
うまくいった恋もある。
どうにもならなかった恋もある。
自分から離れたこともあれば、離れていかれたこともある。
61年も生きていれば、人を好きになることについて、それなりに分かったつもりにもなる。
ところが。
人間というのは、分かったつもりになった頃が一番危ないのかもしれない。
ある夜、スマートフォンに短いメッセージが届いた。
「今日はありがとうございました。楽しかったです」
それだけだった。
ハートマークもない。
「また会いたい」と書いてあるわけでもない。
よく考えれば、ごく普通のお礼のLINEだ。
私は、
「こちらこそ、楽しかったです」
と返した。
ここまでは普通だった。
問題は、そのあとだった。
しばらくして、もう一度スマートフォンを見た。
返信は来ていなかった。
別に返信が必要な内容でもない。
そう思ってテーブルに置いた。
五分くらいして、また見た。
やはり何も来ていない。
そこで私は、自分でも少しおかしくなった。
61歳にもなって、何をやっているんだろう。
若い頃と何も変わっていないじゃないか。
もう恋愛で傷つく年齢でもないと思っていた
若い頃の恋には、勢いがあった。
好きになれば会いたい。
会いたければ電話する。
今ならLINEだろうが、私たちの若い頃はそんな便利なものはなかった。
家の電話にかければ、本人より先に父親が出ることもある。
今の若い人には分からない緊張感だと思う。
恋愛するにも、なかなか勇気が必要だった。
それでも若い頃には、
「この人と付き合いたい」
という気持ちが先に来た。
その先のことなんて、それほど考えていなかった。
ところが61歳になると、少し違う。
人生の残り時間を数えて暮らしているわけではない。
まだやりたいこともあるし、元気でいるつもりでもいる。
ただ、
時間が無限ではないことを知っている。
これは大きい。
若い頃なら、恋が終わっても、
「また次がある」
と思えた。
実際、次があった。
でも61歳になると、ふと考える。
もし今、本当に誰かを好きになったら。
この人と、あと何回桜を見るのだろう。
あと何回夏が来るのだろう。
そんなことを考える自分がいる。
少し話はそれるが、恋をする前から桜の回数を数えているようでは、我ながらずいぶん面倒な男になったものだと思う。
でも、年齢を重ねるというのは、たぶんそういうことでもある。
始まりの中に、終わりがあることを知っている。
だから若い頃より慎重になる。
そして慎重になるほど、人を好きになることから遠ざかっていく。
恋をしなくなったのではなく、始まる前に止めていた
「もう、この歳だから」
この言葉は便利だ。
恋愛だけではない。
服でもそうだ。
旅行でもそうだ。
新しいことを始めるときにも使える。
「もう、この歳だから」
そう言えば、やらない理由になる。
恋愛なら、なおさらだ。
今さら誰かを好きになってどうする。
面倒なことになるだけだ。
一人のほうが気楽だ。
生活のペースもできている。
誰かに合わせるのも疲れる。
確かに、その通りだと思う。
一人で食べたいものを食べ、一人で行きたいところへ行き、眠くなったら寝る。
誰にも文句を言われない。
これはこれで、かなり快適だ。
ところが。
快適と、心が動くことは、どうも別らしい。
あの日、彼女と食事をしているときも、特別なことが起きたわけではなかった。
少し仕事の話をした。
昔の話もした。
料理がおいしいとか、最近こういう店が減ったとか、本当にどうでもいい話をした。
彼女が笑った。
ただ、それだけだった。
それなのに家へ帰ってから、
その笑った顔を思い出した。
私はそこで初めて、
少し困った。
これは、まずいな。
そう思った。
何がまずいのか、自分でもよく分からない。
でも、恋というものは案外、
「好きだ」
より先に、
「これは、まずいな」
から始まるのかもしれない。
61歳でも、LINEの一行に迷う
数日後。
私は彼女にLINEを送ろうとしていた。
「この前は楽しかったです。また食事でもどうですか」
たったこれだけだ。
文章にすれば、三十秒もかからない。
ところが送れない。
「また食事でも」の「でも」は必要だろうか。
「よかったら」を入れたほうがいいのか。
「また行きましょう」では軽すぎるか。
「またお会いしたいです」では、重い気もする。
……何をやっているんだ。
途中で本当にそう思った。
61歳である。
仕事ではもっと面倒な判断をしてきた。
お金のことも、人間関係のことも、それなりに決めてきた。
なのに、
「また食事でもどうですか」
が送れない。
恋愛というのは、人間から年齢も肩書も経験も、いったん全部取り上げてしまうものなのかもしれない。
最後に残るのは、
「断られたら嫌だな」
という、ずいぶん幼い自分だった。
若い頃より、好きになるのが怖い
若い頃は、失恋が怖かった。
でも今思えば、本当の意味では「失う」ということを、それほど知らなかったのだと思う。
61歳になるまでには、いろいろな別れがある。
恋人との別れだけではない。
親との別れ。
仕事で付き合ってきた人との別れ。
昨日まで元気だった人が、突然いなくなることもある。
もう二度と会えないということが、本当にあると知る。
だからなのかもしれない。
年齢を重ねてから誰かを好きになるのは、若い頃とは違う怖さがある。
好きになればなるほど、
いつか失うかもしれないものが増える。
それなら最初から、一人でいたほうがいい。
そう考えるのも分かる。
私にも、その気持ちはある。
でも反対に思うこともある。
終わる可能性があるから始めないのなら、人生のほとんどのことは始められない。
旅行だって終わる。
食事だって終わる。
楽しい夜も終わる。
人生そのものだって、いつか終わる。
終わるから意味がないのではない。
終わるからこそ、
その時間が大切になることもある。
61歳になって、ようやくそんな当たり前のことを考えるようになった。
「好き」と「寂しい」は似ている
ただし、この年齢の恋で少し気をつけたいこともある。
それは、
寂しさと恋愛を間違えないことだと思う。
一人でいる夜が長くなった。
誰かと話したい。
食事を一人でするのが寂しい。
そんなときに優しくしてくれる人が現れれば、心が動くことはある。
それは悪いことではない。
でも、
「この人が好きなのか」
それとも、
「一人ではいたくないのか」
は、少し違う。
若い頃の私は、そんなことを考えなかった。
好きなら好き。
会いたければ会う。
もっと単純だった。
でも今なら、
自分の寂しさを誰かに埋めてもらうためだけの恋愛は、相手にも少し失礼だと思う。
だから私は、自分に聞いてみた。
彼女でなければダメなのか。
誰でもいいから隣にいてほしいだけなのか。
答えは、すぐには出なかった。
ただ、
別の女性と食事をするところを想像しても、あまり嬉しくなかった。
彼女ともう一度話したかった。
彼女が笑うところを、もう一度見たかった。
それなら、
少なくとも「誰でもいい」ということではなさそうだった。
61歳だって、触れたいと思う
ここは、きれいな話だけで終わらせたくない。
誰かを好きになれば、
触れたいと思うことがある。
手をつなぎたい。
抱きしめたい。
そして、
SEXしたいと思うことだってある。
61歳だから、その気持ちだけ消えるわけではない。
むしろ若い頃より複雑かもしれない。
若い頃は、自分の身体について今ほど考えなかった。
裸になることにも、それほど意味を感じなかった。
でも年齢を重ねれば、身体は変わる。
お腹も変わる。
肌も変わる。
体力も変わる。
男性なら、性的な機能について不安を感じることもあるだろう。
女性にも、年齢による身体の変化がある。
つまり年齢を重ねてから裸になるというのは、
服を脱ぐだけではない。
自分が生きてきた時間まで相手に見せることなのかもしれない。
これは少し怖い。
若い頃とは違う意味で、恥ずかしい。
でも同時に、
その身体に触れたいと思ってくれる人がいる。
自分も、その人に触れたいと思う。
それはSEXという言葉だけでは説明できない、かなり深い親密さなのではないかと思う。
まだ私と彼女の間に、そんなことが起きたわけではない。
手すら握っていない。
だから、ずいぶん先の話をしている(笑)。
ただ、好きになるということは、
心だけを好きになることではない。
61歳の恋を書くなら、そこから逃げたくはないと思う。
若い頃の恋より静かで、若い頃の恋より深い
二度目に会ったとき、
彼女は少し遅れて来た。
店の入口から、
「ごめんなさい」
と言いながら歩いてきた。
私は、
「大丈夫ですよ」
と言った。
たったそれだけのことなのに、
来てくれたことが嬉しかった。
若い頃なら、
もっと分かりやすいものを恋だと思っていた気がする。
ドキドキする。
抱きしめたい。
独占したい。
毎日会いたい。
もちろん、今だってそういう気持ちはある。
でも61歳になってから感じる「好き」は、少し静かだ。
この人が今日、元気でここに来てくれた。
それが嬉しい。
話している間、楽しそうにしている。
それが嬉しい。
帰り道に、
「今日は楽しかった」
と思ってくれたら、もっと嬉しい。
若い頃より欲がなくなった、と言えば格好いい。
たぶん、そんなことはない。
欲はある。
ただ、
相手から何かをもらうことより、相手と過ごしている時間そのものを惜しいと思うようになった。
これは年齢のせいなのか。
彼女だからなのか。
まだ分からない。
最後の恋にしようとは思わない
「最後の恋」
という言葉には、どこか美しい響きがある。
人生の最後に出会った人。
その人だけを愛して生きていく。
映画なら、とてもいい。
でも私は、
この恋を「最後の恋」にしようとは思わない。
そもそも最後かどうかなんて、今の自分には分からない。
この恋が始まるのかさえ、まだ分からない。
三回目の食事で、
「やっぱり違うな」
とお互い思うかもしれない。
向こうには、恋愛感情なんてまったくない可能性もある。
その可能性は、かなり普通にある。
恋愛は一人ではできない。
これは61歳でも変わらない。
だから、
最後かどうかを決める必要はないと思っている。
ただ、
これが自分にとって、
もう一度の初恋
になることはあるのかもしれない。
初恋は、一度しかできないものではない
初恋という言葉を聞くと、
中学生や高校生の頃を思い出す人が多いだろう。
初めて人を好きになった。
初めて手をつないだ。
初めてキスをした。
確かに、それも初恋だ。
でも61歳になって思う。
初恋とは、
人生で最初にした恋だけを指すのだろうか。
何度も人を好きになって。
傷ついて。
別れて。
誰かと暮らして。
人間なんてこんなものだと少し分かった気になって。
もう自分の心が大きく動くことなんてないと思ったあとで、
一人の人に出会う。
そして、
LINEが来ただけで嬉しくなる。
会える日を気にする。
鏡を見る時間が少し長くなる。
服を選ぶ。
相手の一言を思い返す。
そんな自分に、
自分自身が一番驚く。
それも、
初恋と呼んでいいのではないだろうか。
そして、三度目の約束をした
その夜。
私はスマートフォンを手に取った。
文章は、もう決めていた。
「今日はありがとうございました。また食事でもどうですか」
今度は、「よかったら」を入れるかどうかで悩まなかった。
……と言いたいところだが、
やっぱり少し悩んだ。
結局、
「また食事でもどうですか」
と送った。
既読になった。
返事はすぐには来なかった。
私はスマートフォンを伏せた。
もう見ない。
そう決めた。
十分くらいして、
見た。
人間、61歳になったくらいでは、それほど成長しないらしい。
返信が来ていた。
「ぜひ。また行きましょう」
その文章を見て、
私は少し笑った。
この恋がどうなるのかは分からない。
恋と呼べるところまで行くのかも分からない。
彼女が私をどう思っているのかも、まだ分からない。
最後の恋になるかどうかなんて、
もっと分からない。
でも、
誰かに会える日を楽しみにする。
メッセージが来ると嬉しい。
少しだけ格好よく見られたいと思う。
そんな自分が、
まだ自分の中に残っていた。
それだけで、今は十分だった。
たぶん初恋というのは、
人生で一度しかできない恋のことではない。
もう一度、自分の心が動いたことに、自分自身が驚く恋。
そんな恋なら、
61歳にだってある。
だから私は、
このまだ名前もついていない気持ちを、
少し照れながら、
「最後の初恋」
と呼んでみることにした。
運営者のメッセージ
今回の記事は、いつものような恋愛心理の解説ではなく、61歳の男性を主人公にしたフィクションを交えた物語として書きました。
ただ、書いていることのすべてが作り話だとも思っていません。
年齢を重ねれば、
恋愛に慣れる。
人を見る目もできる。
若い頃ほど振り回されなくなる。
そう思っていました。
でも、本当に誰かを好きになったら、
案外、人は何歳でも同じなのかもしれません。
返信が来れば嬉しい。
来なければ気になる。
会う前には少し緊張する。
そして、相手に少しでもよく見られたい。
61歳にもなって、と笑われるかもしれません。
でも私は、
61歳だからこそ、そんな自分を笑いながら楽しめる恋があってもいい
と思っています。
若い頃のように、
恋の先に必ず結婚があるわけでもない。
家族を作ることだけが目的でもない。
ただ、
この人ともう少し話したい。
もう一度会いたい。
できれば、もう少し近くにいたい。
そこから始まる恋もある。
そして、もしあなたが50代でも、60代でも、70代でも、
「もう恋愛なんて自分には関係ない」
と思っているのなら。
それは本当に恋が終わったのではなく、
まだ、
次に心が動く人に出会っていないだけなのかもしれません。
恋に年齢制限はない。
そんなきれいな言葉だけで片づけるつもりはありません。
年齢を重ねた恋には、
身体のことも、
家族のことも、
お金のことも、
残された時間のこともある。
若い頃より、ずっと現実的です。
それでも、
現実を知った人間が誰かを好きになるからこそ、
そこには若い頃とは違う恋があるのだと思います。
さて。
三度目の食事で、
二人はどうなるのでしょう。
私にも、まだ分かりません。
物語は、
ここで終わりにしておきます。
恋というものは、
少し先が分からないくらいが、
一番いいのかもしれません。
